調査段階で佐久市にあった土蔵はその昔、望月町にあった建物を移築していることが分かりました。明治3年(西暦1870年)と記載された書類が見つかったことから佐久市に移築してから150年以上、材木はそれより長い年月をかけて建材として使われていたことになります。
当時、土蔵は年貢を納めるための庄屋の米蔵として使われていました。
※庄屋:江戸時代の村落の長
昔から高温多湿な日本では湿度調整のため貯蔵庫に土壁が用いられてきました。土壁は左官屋が葦*をみご縄*で結って下地を作り、細かく切った藁や馬糞、水を混ぜて発酵させた土を押し固めて作ります。
厚さ約20cmにもなる丈夫な土壁を解体作業では機械を用いて砕き、家主の田んぼに還しました。その年、収穫したお米は近隣住民から大好評だったそうです。
※葦(あし):湖沼の水際に生える背の高いイネ科の植物
みご縄:稲穂の芯でなった縄
土蔵で用いられた材木は信州や北海道など寒い地域に植生する天然カラマツ。カラマツは比重が重く、当時は山から切ってくるのも一苦労でした。そのため建物が解体されれば材木は処分せず使い回し、資源を再利用していたのです。
建材は年輪の3倍持つと言われており、布流久佐で使われている古材が現役であることから当時植生していたカラマツが非常に立派であったことが推測できます。